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仮想通貨と仮想宗教
巷では仮想通貨なるものが流行りおると聞くが如何なものかな。一説によると、多くの取引をよってたかって吟味しチェーンのように連なり一つの取引明細に怪しいところが有れば全てが揺らぐから、おかしなことは起こらないと言うことらしい。
それを信じる者が多ければ多いほど信用が増す。一つの銀行で台帳をつけるより、世界中の銀行で取引を見張ればより信用力が裏打ちされるのに似ている。違うのはそれを裏付けるエネルギーとして膨大な電力がいると言うこと、暗号技術を使いブロックチェーンを編んでいく。
人を信用するのではなく世界中のパソコンの計算力を凌駕しょうとすると、とてつもないパワーと経費が掛かるから誰もやらないと言うある種のネガティブシンキング。それと普通の通貨と違って発行量を決めてインフレになりにくくすると言う。
でも金もダイヤモンドも数が少ない、希少価値があるから価格が維持できるのとは少し意味が違う。金やダイヤモンドは現物がある。それを小袋に入れれば旅にも持って行ける。ただ金もダイヤモンドも火災には対抗できない。
その点電子ビットは世界中のパソコンに散らばってるから保管と言う面には有利性がある。管理者がいないから価格のコントロールが出来ない。仮想通貨その物には価値はない、その信頼性に価値を見い出だしているだけ。だから価格の変動に対するリスクはこれからの課題であろう。
それを信じる者の数が増えれば信用が増す。信者の数が増えれば力も権力すら付いてくると言うことから言えば、非常に宗教に似ている。一人でやっている宗教など誰も見向きもしてくれないだろう。でもそれがコツコツと布教して行くとだんだん力も付いていく。何か安物のブログにも似たところがある。
ならば仮想通貨は宗教になれるのだろうか。持ち運びに難点がある。電子ウォレットと聞けば軽そうに思うが、中々大層な準備と重さが伴う。宗教の場合一旦信じてしまえば何も要らない。強いて言えば、聖書かお経、クロスか数珠、その強烈な簡便性に強みがある。
ベンチに座って、ベッドに横たわって聖書を読む。仏壇に手を合わせる。スマホカメラのフレームに収まるくらいの扱いやすさ、信じてしまえば何処へでも行ける。宇宙の果てまでも光の速さより速く。それは思考には質量がない、一人一人の頭の中に仕舞われ粒子でもない存在。
この世界は神の意志だけで出来ているのであろうか。そうではないだろう、それだけではこの世界は回っていかない。足らずを生き物達の意志がそれを補完している。だから庶民一人一人がその思考力を使って行かなければこの世界はとんでもないところへ行ってしまう。信じるのは大切であろう、信じ無ければ大型ジェット機なんかのっていられない。墜ちない飛ぶんだと信じるから乗れるのであって、宗教もそれに似たところがある。信じるからそれも大勢の人が信じるから成り立っているので有って、そこが微妙なところである。信じきってしまえば妄想にも繋がりかねない。だからがんらい思考は自由な物だから常に自分の頭で考えて行かなければならない。思考を停止すると、ジェット機のように失速して墜落してしまう。
こんな光よりも速く、宇宙よりも広い思考回路が有るんだから、自らが考え信じれるものを作っていこう。宗教にもジェネリックが有っても良いと思う。何も薬業界みたいに後発、廉価版などと捉えず、ジェネリック本来の意味である一般的、庶民的との考えで作っていってください。仮想通貨と一緒でそれぞれのパソコン(思考回路)が全体の取引を監視して是正出来るような世界観が発達していけばより良い人生が送れるようになる。
元来宗教は、衆人の中で仮想的に始まった考えが撚られて太くなり現実に近付いて来ただけでもともと仮想の物で有った。今や戦争の種になり利益の発生手段として居座るような物でなく、もっと庶民に優しい手軽な物に撚り直していかなければならないと思う。一部の人や一部の国だけが得するようではならないと思う。
仮想宗教
作詞 つばめのす
いつまでyes言うてんの
何時まで南無なん
どこまでアラー
二千年同じ事言ってる
人が心に念じるのは
不安だから 心配だから
嬉しいから 良くなりたいから
それが自分の事であれ人の事であれ
それは変わらないでしょう
いつまでも続くでしょう
人はビットで生まれビットで死んでいく
生まれた時から仮想の世界
仮想の世界のまま死んでいく
実際なんて本当何もないの
みんな仮の姿 仮の世界
宗教も仮想の一つ
もっと変わった仮想が現れないかな
消えたビットのもう一つの私はどうしてるかな
所詮この世はmodulusの世界
何で割るかで答えが決まる
割った余りが半端者の俺ならば
やっと合点のラテンクォーター
道理で人と反りが合わないアイム ソリー
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