阿修羅

作詞

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阿修羅と女子高生

阿修羅今でこそ悪鬼とか悪魔とか言われているけど、元々神の一族だった。帝釈天の力の神、阿修羅の正義の神として忉利天に住んでいた。 忉利天 の主は帝釈天であった。

阿修羅には舎脂と言う娘がいた。阿修羅はいずれ帝釈天に嫁がそうと考えていたが、帝釈天が辛抱できず凌辱してしまった。怒った阿修羅は帝釈天に戦いを挑んだが力の神に叶うわけもなく、おまけに四天王も帝釈天の配下だった。天界で正義を追及しすぎて反って天界を追われる羽目になった。その後舎脂は帝釈天の正室に成っている。

仏教六道、天道人間道修羅道の三善道、畜生道餓鬼道地獄道の三悪道合わせて六道の内人間道の下に追いやられた。身長は一由旬、一説に7.2キロメートル寿命は1000歳、一昼夜が人間の100年に当たる。常に闘う心の持ち主であった。

悪いことを何もしていないのに理不尽にも左遷させられたサラリーマンみたいなものだ。ちなみに須弥山(妙高山)の高さは八万由旬だそうだ。
三面六臂の異形を持ちながら根強い人気を持つのは、その表情に依るものだろう。悲しげであり、少し怒りを含んでそれでいて穏やかな面もある。

正義を貫いた為に世間の隅に追いやられるなんて話しはよく聞く。力が正義を上回ることは幾らでもある。そんな力と常に戦っている阿修羅が好まれるのは、極自然なことだと思う、特に今の世の中みたいに混沌とした時代には。

私には、阿修羅に被ってくる存在がある。それは女子高生である。家庭と言う 忉利天には父親と言う帝釈天がすでにおり威張っている、いくら娘が正義を振りかざしても力の神である帝釈天には叶わない。最早舎脂である母親は、帝釈天である父親に凌辱されていて味方にはなってくれない。四面楚歌の阿修羅は家を出るしかない。

遠い昔より、女三界に家無しと言われて久しい。これは幼きしては親に従い、嫁いでは夫に従い子をなしてはこれに従うと言う意味合いです。境遇が何処と無く阿修羅に似ている。そしてこれは興福寺の阿修羅像の姿形が寄与していると思われるが、スリムで怒ったような表情をしている阿修羅が好まれると思う。

朝早く駅から遠い学校まで、大きなリュックを背負いがむしゃらに自転車を漕ぐ姿は阿修羅そのものだ。セーラー服のスカートは風に翻り、脇から覗く白い肌は阿修羅像の躯体そのものだ。

こうして考えてみると、仏の世界の天道も人間道も悩みは一緒なんだな。その悩みから抜け出す為に日々の生活を律し闘心を養いその日のために、朝起きてセーラー服を着て朝御飯を食べ電車に乗り自転車を漕ぎ必死に生きていくその日のために。

好きなことをすればいい、部活でも習い事でもスポーツでも対人関係のいざこざは三面でやり過ごし六本の手で日常をやり過ごす。まさに阿修羅の如く、西野カナを越えろ安室奈美恵を目指せ、世界のRihannaのように奔放に生きろ。あなたはバルバドスって知ってましたか。西インド諸島の果てのはての小島ですよ、大島じゃありません。それでも世界に呼ばれたら出てくるんですね。あなたも世界に呼ばれるように、日々鍛練してください闘うために。

あなたに力が有れば、力を磨いて居れば世界が呼んでくれます。何処にいてもそれと世代も関係有りません、幾つになっても頑張っていれば世界は見ていてくれています。いじけないで回りを明るくするように生きていれば必ず叶いますあなたの夢は。

阿修羅と女子高生の相関は方程式で表せないけれど必ず相関しています。この日本を背負っていくのは新しい世代を産み出せる力をもったあなた方しかいません。男は頼りないからあなた方が引っ張っていけば付いてきます。男の価値は女性をどれだけ守れるかです。

 

阿修羅

作詞 つばめのす

阿修羅の如く 髪を引き詰めて
お団子を 頭頂部に

このまま決戦の場に向かうのか
腕を挙げた セーラー服の隙間に
可愛い脇腹がのぞく

頑張れ女子高生 愛車に跨がり
明日に向かって やみくもに走れ

その道が 棘道でもでこぼこ道でも
今は 間違いなく人生で一番
ピュアで輝くとき
悩みも アクセサリーの一つ

プリーツスカートの洗濯代が高い
母も洗ってくれない
自分でするしかない

替えが無いのは 彼女の人生も同じ
休みの日は ジャージで過ごす
海老茶色の胸の膨らみにも
女らしさが 溢れだす

頑張れ 女子高生 阿修羅の如く
突っ走れ 思いを優しく時に激しく

 

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