舞鶴の女

作詞

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再会と別れの街

舞鶴は京都の北部の日本海に面した港。古くから北前船の寄港地として栄え、日露戦争時もここから殆どの軍艦が出港した。水深は深く湾口は狭く貞淑な良港として現在に至る。

西港と東港に別れ、西港は対シベリアなどの商業港として、東港は昔は海軍今は海上自衛隊の基地となり、イージス艦など多数の船籍が出入りしている。また新日本フェリーが小樽、苫小牧との間にそれぞれ就航している。

何と言っても、戦後在外日本人の引き揚げ港として有名である。岸壁の母のモデルで有名である。

明智光秀の三女、玉子後にキリシタンに回収してガラシャと名乗った。細川忠興に嫁ぎ若くして宮津に居城した。とても美しく、植木職人が見とれる余り忠興が手打ちにしたと有るのです。舞鶴の田辺城にも仮入城してた時期がある。

本能寺の変の以降忠興が秀吉に寝返ったため、大阪市中央区玉造の屋敷に幽閉された。夫忠興が東軍に付いたため石田光成に攻められたが降伏せず、洗礼を受けていたため自傷するもいかず、家来に介錯させ最後は爆死したと伝えられる。その美貌と気性の激しさから晩年は余り幸せではなかった。個人的な考えですが、宗教にはまるのはとても寂しいと思います。もっと俗悪に生きてこその人生も有ると思います。

舞鶴には時を重ねて、京極マリアと言う戦国の女がいました。どこかで会っていたかも知れませんね。偶然にもガラシャに洗礼を進めたガラシャの侍女の洗礼名もマリアです。オランダの宣教師が面倒くさがりだったのですかね。

京極マリアは息子の高次が若狭の城主だったのですぐ会いに行けるようにか、舞鶴の泉源寺に庵を立てて晩年を過ごしたらしい。

戦国の女たちは何に祈って武将の帰りを待ったのでしょう。戦争の陰も深いこの港町に今も一人の女が佇みます。その名前は、ガラシャかマリアか。

ガラシャはどちらかと言うと丹後の味土野とか宮津に縁が深いようですが恐らく何処かで出会いお茶など飲み交わしたのでは無いでしょうか。あくまでも私の戦国の世の女たちの暮らし向きが少しでも穏やかな部分的が有ったことを願っての推測に過ぎません。

追記

私の祖父は戦前製鉄所を経営していて、海軍工廠に船の錨の鎖を納入してました。だから舞鶴には何度もいっていたと思います。舞鶴では駆逐艦の製造が主だったのでかなりの数を入れていたと思います。かなりの成功を収めたと思います。当時珍しい洋館造りの豪邸を建てていました。母の話しに依ると、午後4時には宗右衛門町の料亭で芸者を上げて遊んでいたらしい。酒好きが祟って早く亡くなってしまった。顔ぐらいは見たかったと思う。

 

舞鶴の女

作詞 つばめのす

出会いと別れの港町
あなた尋ねて来たけれど
運命の重さに縛られて
悲しく鶴が舞うばかり

ガラシャもマリアも祈った女の幸せ
あなた来ぬかと見上げる青葉山
朝日が射して定かに見えません
今日は心を決めなくては

錨を上げる音が煉瓦に響き
私の心に焦りを巻き付ける
出ていく船に 帰る船
あなたの心はどちらなの

 

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